18 世紀後半〜19 世紀前半。イギリスが綿工業を中心とする産業革命を遂行し資本主義を確立。
穀物法廃止・自由貿易・農業の黄金時代を経て、自由主義的経済政策下での「世界の工場」体制が形成される。
18 世紀後半〜19 世紀前半、イギリスでは 綿工業を中心とする産業革命 が遂行され 資本主義が確立する。重商主義的な保護・規制が撤廃され、「神の見えざる手」に すべてを委ねる政策へ転換していく。
重商主義(保護・規制)→ 自由主義(夜警国家)
イギリス=工場、農産物輸出国=原料供給地
ポンドを基軸通貨とする金本位制
産業革命は突然始まったわけではない。毛織物の農村工業、交通インフラ、購買力、農業革命 という 4 つの前提条件が積み重なって初めて離陸する。
農村工業 → 工業村落の形成 → 新興工業都市の発展(マンチェスター・バーミンガム)・経済都市の成立。
道路・港湾・河川・運河の整備 → 水路と道路による交通網の形成。内国関税や通行税が早くから撤廃されていた(国内市場の統一)。
市民の高い購買力=国民的規模の購買力の存在。重商主義の投資・技術進歩・海外貿易を通して徐々に富が蓄積された結果(←植民地支配に基づく 商業革命:奴隷貿易・三角貿易)。フランスの 2 倍の賃金 → 白パン・肉・革靴・毛織物の消費。
輪栽式農法(ノーフォーク農法)による農業生産力の上昇 → 農村から都市への 大量の人口移動を可能にする。
イギリス綿工業は 原綿を輸入し綿製品を輸出 する貿易依存度の高い産業。 製品市場の確保と円滑な貿易が死活問題となり、重商主義から自由主義への転換が必然となった。
イギリスを追いかける各国は、異なる前提条件と異なる方法 で 産業革命に挑む。それぞれの「飛び方」が以後の農業構造を規定する。
イギリスから紡績機械を導入して工業化を開始。対英高率保護関税(1820 年代)。
強すぎる保護が逆に国内工業化の停滞を招く ― 生産力向上の刺激を弱め、旧中間層の両極分解を妨げてしまう。
鉄道建設・産業振興のための長期投資(クレディ・モビリエ銀行)。⇒ 19 世紀後半にはイギリスと競争できるまで成長。英仏通商条約(1860 年)で自由貿易に転換。インドシナ・北アフリカに植民地・勢力圏を形成。
1820 年代〜:繊維製品・鉄製品を中心に 対英保護関税を設定(幼稚産業保護)。
原料供給者としてイギリス経済依存を強めた 南部プランター(自由貿易派)と対立。鉄道建設と結びついた製鉄業の展開(1850 年代〜)→ 国民経済の編成を目指す → 南北戦争。
戦後、南部プランテーション:奴隷制 → シェアクロッパー(分益小作制)に転換。
18 世紀末まで 300 余の領邦国家に分裂 → ナポレオン戦争敗北 → 国民国家形成(プロイセン主導)。シュタイン=ハルデンベルクの改革。
農民解放(有償・貨幣支払い・土地割譲)→ 農民の困窮化・没落。賦役に依拠していた旧領主直営地は経営規模を拡大 → ユンカー経営へ。没落農民を賃金契約で雇用(人格的隷属)。
農産物輸出志向を強めたユンカーは 自由貿易推進政策の中核。プロイセン主導の関税同盟(1834 年)→ 鉄道建設の開始(1835 年)→ 製鉄業の発展。プロイセンの国家機構はユンカーが掌握 = 工業界が望む保護関税は実現されない。
政治的分裂状態 → サルディニア王国が統一の中心 → リソルジメント(1861)。
穏健自由主義的ブルジョワジーと貴族との同盟 → 土地改革は行われない。中南部は地主制に基づく 折半小作制が継続(南部は大地主が支配)。
国家の直接的な援助で鉄道・製鉄業を育成 ← 財政支出は増税で賄われる。
平等原理の耕地共同体と農奴制を基盤とする 農奴主専制国家(19 世紀半ば)。クリミア戦争(1853〜1856 年)の敗北 → 農奴制国家体制からの脱却が課題。
「上からの近代化」を遂行。外国資本の誘致・国家支援による鉄道建設・信用制度改革・財政改革。農奴解放(1861 年):領主への農奴的・人格的隷属からの解放。ただし旧来の農民利用地の一部を領主に返還、残りは買い取り(買戻金支払い)。
分与地は引き続き耕作強制と定期的な割替が続く(共同体規制の存続)。雇役制:分与地の縮小を地主から借地で補い、役馬持参の労役(雇役)提供。
工業化は 鉄道と軍需工業によって主導される。共同体と雇役制に緊縛された農民 = 狭隘な国内市場 → 工業化の行き詰まり。
各国の選択を理解するには、常に イギリスとの比較に立ち戻る必要がある。自由貿易を可能にした条件(毛織物農村工業、植民地、海軍力、農業革命、金融)はどの国にも揃わなかった。
その結果、後発国は 「保護関税で守りつつ国家主導で育てる」 という別の道を選ばざるを得なかった ― これが帝国主義段階(第 4 回)への伏線となる。
ドイツの面白さは、同じ国の中で「自由貿易を望む農業(ユンカー)」と「保護関税を望む工業(産業資本)」が 対立した点にある。普通は逆 ― 農業が保護を望み工業が自由貿易を望む ― だが、ドイツでは ユンカーが穀物輸出で利益を得ていたために自由貿易支持に回った。
プロイセンの国家機構をユンカーが掌握していたため、工業界が望む保護関税は実現されない。 この構図はビスマルクによる 「麦と鉄の関税同盟」(1879 年)で解消されるが、 それは次の帝国主義段階の話 ― 自由主義段階のドイツは 「ユンカー主導の自由貿易」という 独特の構造を持っていた。
自由主義段階のイギリス農業は 穀物法廃止 → 黄金時代 → 資本主義的確立 → 限界露呈 の 4 段階で展開する。
穀物法(Corn Law)は重商主義を代表する政策。国内の小麦価格を 1 クォーターあたり 50 シリングに維持することを 目的に 高率輸入関税を課す(1791 年:新穀物条例)。ナポレオン戦争による大陸封鎖によって 穀物価格は上昇、1 クォーターあたり 100 シリングを超える高値を維持。
ナポレオン戦争終結 → 大陸から安価な穀物が大量に輸入される → 穀物価格の低落の懸念 → イギリス国内で政治問題化。
地主は関税強化による穀物価格引き上げを要求したのに対し、産業資本家は 労賃の引き下げを可能にする穀物価格の低下を歓迎、関税撤廃を求めた。 労働者階級も関税撤廃を求めた(「穀物条例反対運動」)。経済理論としては マルサスとリカードの論争が繰り広げられる。
結果は 地主の敗北に終わり、1 クォーターあたり 1 シリングの一律関税(実質 2% 前後)となる。 政治の実権が地主階級から産業資本家階級に移ったことを象徴。
「英国は食卓(朝食)に課税しない」 ― イギリスは Cheap Food Policy の国となる。
ハイ・ファーミング(High Farming)の時代。国家の保護なしにイギリス農業が 高い成長を達成した約 20 年間。
農民層分解が激しく進行(新技術を導入するには資本が必要だが、これがない農民は急速な技術進歩についていけず没落)。 地主 ─ 農業資本家 ─ 農業労働者という資本主義的三分割を完成。
= 資本主義のメカニズムが完全に農業を把握した唯一の典型事例 (農業資本家に利潤が生まれなければ農業は行われない)。
土地所有は上層に集中。資本家的経営が圧倒的な地位を占める。 耕地の 87% が資本家的経営による借入地となる。1851 年に 134 万人の農業従事者がいたが、 そのうち 8 割にあたる 97 万人が農業労働者。この農業労働者を資本家的経営が雇い入れて 農業生産が行われるという体制が確立。
資本主義的三分割を実現したとはいうものの、大量の家族経営を残存させざるを得なかった。 ← 農業生産の季節性、工業生産のような完全なコントロールはできない。100 エーカー未満の零細経営は 約 13 万、全農場数の 6 割を占めていた。
自由主義的経済政策の下では、外国農産物輸入の増大によって農産物自給率が低下し、 国内農業の部分的放棄に立ち至る事態を回避することはできなかった。 小麦自給率:1830 年代後半 90% → 1870 年代後半 50% 台へ。
生産性がいくら高くても 低労賃による安価な農産物には勝てない(例えば日本とベトナムとの関係を想起せよ)。 国内農業は穀作から畜産・園芸へシフトしていった(特に粗放的な畜産へのシフトが進む)。
ドイツは イギリス綿工業の輸出攻勢に圧倒される なかで産業革命を遂行。 農業近代化は進んだが、零細な「小農」が大量に滞留する構造から抜け出せなかった。
農業生産は順調に推移 → 近代農業法の普及。チリ硝石、燐鉱石の輸入 → 鉱物性肥料の使用 → 耕地利用率の向上と 4 年輪作体系の定着。開墾による農地面積の拡張。
しかし 人口増加の方が速い。1849 年 830 万人 → 1880 年 957 万人。 ドイツは 農業国としての色彩を濃厚に保持。
麦類は大麦を除いて生産量大幅増。馬鈴薯・甜菜も急増。専ら 反収増加によってもたらされた (耕地面積は 250 万 ha 台で変化ない)。合理的輪作体系の定着。耕地整理の実施 (分散した土地を交換して大きな圃場にまとめる)。多肥農業(化学肥料)と農業機械化の進展。
穀物自給率は低下。小麦の輸入依存度は 1888〜1893 年の 21% から 1909〜1913 年は 31% に上昇。 果樹・畜産・工芸作物(馬鈴薯・甜菜・タバコ・ホップ)等 集約作物の比重増加 ― 穀作から集約農業への転換。
ユンカーは農業労働者を雇っていたが、その内実は 旧来の賦役慣行を色濃く残存させた劣悪な条件での 労働力調達によって辛うじて支えられていたにすぎず、半封建的地主経営と呼ぶべきものであった (イギリスでみられるような資本家的農業経営ではない)。
☞ 農業における雇用型経営は近代的な雇用関係に基づかない労働者の雇用によって成立したとみるべきかどうか ― これは現代にも続く重要な論点である。
アメリカ・カリフォルニアの大規模・家族経営も 果実の収穫等は外国人の移動労働者に依存している。 日本の雇用経営も 外国人技能実習生を導入しているところが多い。 マックス・ウェーバーはドイツ人農業労働者の枯渇を背景に ポーランド人の雇用がユンカーで進んでいる ことに警鐘を鳴らし、「東部国境を閉鎖せよ」と力説した。
ユンカーの賦役慣行 ─ カリフォルニアの移動労働者 ─ 日本の技能実習生 ― この線が 第 12 回「外国人財との共生」へとそのまま繋がる。100 年以上前のドイツの問題が、 いまだに姿を変えて続いている。
自由主義段階で、イギリスは 「世界の工場」 としての地位を確立したが、 その代償として 自給率半減・小農の温存 という構造を抱え込む。 これが次の帝国主義段階の前提条件となる。
自由貿易体制 + 金本位制 = 「世界の工場」の地位
農業の三層分解の完成(地主・農業資本家・農業労働者)
農業生産力の飛躍的向上(黄金時代)
植民地体制の効率化(「安価な植民地支配」)
農産物自給率の半減(小麦 90% → 50% 台)
零細経営の残存(全農場の 6 割)
低労賃な海外農産物には勝てない構造
後発国がイギリスに対抗するための 保護関税志向を呼ぶ
歴史に「if」はありませんが、南北戦争でもし南部が勝利していたとしたら、 アメリカはどのような国となり、歴史はどう変わっていたかを自由に論じなさい。
近代化の過程におけるロシアと日本の共通点と相違点について、 農業・土地問題に着目しながら論じなさい。
自由貿易は「最も効率の良い者が市場を握る」という原理だが、それは 「最も効率の悪い者を市場から排除する」 ことと表裏一体である。イギリス農業は穀物において 50% の自給率まで放棄し、 畜産・園芸への 「シフト」として体面を保ったが、実態は 国内農業の部分的放棄であった。
この構造は、現代の WTO・自由貿易協定の議論にもそのまま繋がる。「比較優位に従って国際分業すれば全員が豊かになる」という 経済学の標準理論は、自由主義段階のイギリス農業が示すように、「捨てるもの」を伴う。 その「捨てるもの」が後発国の保護関税志向を呼び、次の帝国主義段階の対立構造を準備するのである。