15 世紀末〜18 世紀末。封建社会の基礎である自給的農業が、商品経済関係に組み込まれていく。
農民層分解が典型的に進んだイギリスと、零細な「小農」が温存されたドイツ ― この差が以後すべての段階に影響する。
重商主義段階とは、15 世紀末〜18 世紀末の「資本主義形成期」 である。 封建社会の基礎である自給的農業生産が、商品経済関係に組み込まれていく過程を辿る。
① 原始的蓄積:農民が土地を奪われ、賃労働者になる
② 農民層分解:村落の同質性が崩れ、階層構造ができる
① イギリス:毛織物工業の隆盛が「典型的な農民層分解」を駆動
② ドイツ:商品経済の遅れが「小農の温存」を生む
産業革命は突然起きたわけではない。その前史として 「プロト工業化」の時代があった。
プロト工業化とは、農民の自家消費用手工業生産(農家副業)の発展、 および都市ギルドの規制を逃れて農村部に流出した職人層による農村工業の発展のことを指す。
この農村工業こそが、後の産業資本の母体となる。都市の職人ギルドが独占的・規制的であったのに対し、 農村は自由度が高く、新しい組織形態(問屋制家内工業 → マニュファクチュア)が試せた。
歴史を「産業革命の前」と「産業革命の後」で大きく区切ってしまうと、 その前段階で何が準備されていたかが見えなくなる。 実際には 15 世紀から 18 世紀にかけて、農村の中で 商品経済の組織化が じわじわ進行していた。
いきなり工場が現れて社会が変わったのではなく、農家副業 → 問屋制家内工業 → マニュファクチュア という 3 段階の組織進化を経て、ようやく産業革命の前提条件が整う。 この前史を見落とすと、なぜ産業革命がイギリスで起きたのかが説明できなくなる。
イギリスは 毛織物業の隆盛 を通じて、 原料供給国から完成品輸出国へと駆け上がり、産業資本を形成していく。
この時期、国家による本格的な経済政策が始まる。 貿易差額の増大を目指す(金銀が富と認識された時代)。
商業的な追求
商業活動による金銀の獲得を中心とする政策。産業・植民地・財政の統合的体系には至らない。
財政・植民・貿易・産業にわたる統一的政策
国民経済の力の増大をめざす。フランスはコルベールによる特権マニュファクチュアの保護育成。イギリスは産業資本の本源的蓄積を推進。
イギリスは国内産業を関税障壁で保護した。具体的には:
植民地を「食料原料の供給基地」「工業製品の輸出市場」として確保した。
獲得した外貨・正貨を経済への通貨供給に回し、信用拡大・利子率低下・資金循環の円滑化を実現。
イギリスの農業構造は 封建制 → 独立自営農 → 第 1 次エンクロージャー → 第 2 次エンクロージャー の 4 段階で激変する。
村落共同体の規制の下で、夏作・冬作・休閑地の 3 つに農地を分け 3 年 1 サイクルで回転 させる方式。 休閑地には家畜を共同放牧することで糞尿を還元し、地力維持を図っていた ― この休閑地なしには 地力維持を図れないほど低い生産力段階であった。
= 3 年 1 サイクルで回転。耕地以外の原野・牧草地は 共有地(commons) とされ、 村落の慣行に規制されながら家畜の放牧や薪採取が行われた。
この共有地の存在によって、小規模な農民も生活することが可能になっていた ― 「低生産力段階での貧しさの共有」こそが、封建制農業の最大の特徴であった。 封建領主は直営地を所有しており、農民に 賦役を課す形でそこを耕作させ収入を得ていた (「労働地代」ともいう)。
12 世紀以降、農村内部に商品経済が浸透。都市の発展と外国貿易の伸長を背景に、 国内各地に「局地的市場圏」が成立していく。
領主は直営地を縮小し、定期借地として貸し出すようになっていく。 賦役・労働地代から 貨幣地代への転換が進む ― これは 14 世紀半ばに発生した ペストの大流行 によって推し進められることになる。農村人口の減少 → 農民を領地に引き留めるために領主は有利な条件を提示するしかなくなった。
貨幣地代になると農民は経営のやり方次第で手元に残る収益を大きくすることができるようになる。 これが 農業生産力の発展にプラスに寄与した。
15 世紀末〜17 世紀にかけて進行。村落共同体的土地所有・土地利用を 根底から変革する。 毛織物工業の発展がこれを推し進める起動力であった(「牧羊化」とも呼ぶ)。
15 世紀、羊毛輸出の禁止 → 毛織物工業が輸出産業化、ヨーロッパ各地に輸出される。 その結果、毛織物の原料である羊毛の価格が上昇し、牧羊業を極めて有利なものにした。 大規模に牧羊業を行うべく、領主・商人・上層農による 耕地の囲い込みが始まった。 囲い込みは強制的に実施される。
三圃式農業の破壊。共有地や森林原野、採草地の囲い込みが進む → 共有地に生活を依存していた 小規模な農民は没落していく。多数の農民が土地から引き離されていく。 没落した農民は都市へ流出して賃労働者となっていく ― 資本家はこの賃労働者を苛酷に使役することが 可能になる(原始的蓄積の進行)。
18 世紀、都市人口増加に伴う 穀物価格の高騰を契機に進行。 囲い込まれた土地で新しい農業生産方式が採用される =「農業革命」。
人口増加:1700 年 550 万人 → 1750 年 650 万人 → 1801 年 900 万人。 この大部分は都市人口。重商主義政策によって穀物輸出が拡大される一方、穀物輸入には禁止的高率関税が 課せられた結果、穀物価格は 2 倍に急騰。
議会立法によるエンクロージャー=囲い込み法(Enclosure Act) が 18 世紀後半から多用される。 18 世紀末には共有地や三圃式農法による耕地利用は完全に姿を消す ― 農場制農業の確立。
カブとクローバーの導入による 地力・生産力の向上と休閑地の消滅。 カブ → クローバー → 小麦という ノーフォーク農法の成立。 共同放牧に伴う雑種交雑がなくなったため家畜の品種改良も進む ― 都市人口の消費に応えていく。
ノーフォーク農法を提唱したのは タウンゼンド子爵。クローバーは窒素を取り込むことで 地力の回復を助け、カブは 冬場の家畜の飼料に欠かしかった ― 飼料が確保されることで冬を切り抜けた家畜はより大きく育てられた。
種蒔き機(ジェスロ・タル)の発明は、作物が斉一に播種されることで生育が促され、 除草も容易になり、収穫の大幅増をもたらした。農業革命は道具と農法の両面で進んだのである。
2 回のエンクロージャーで 独立自営農民が消滅 し、農村は 「地主・借地農・農業労働者」の 3 階層 に分解する。
膨大な数の低賃金労働力が形成された。一部の独立自営農民は借地農に転化。土地は領主・商人に集積され 大地主が形成される。彼らは地代取得を目的に借地農に農地を貸し出し、借地農は没落した農民を労働者として 雇い入れて農業経営を行う ― この 「地主 ─ 借地農 ─ 農業労働者」の三層構造 こそが 英国農業の特徴的な姿となる。
そして、農業労働者や都市の労働者としても残ることができない人々は 海外植民地に送り出されていった ― 矛盾を国内で解決することはせずに国外に転嫁していくという、その後の帝国主義時代へと繋がる構造が、 この段階で既に準備されていた。
ドイツは封建制農業の解体が遅れる。西ドイツと東ドイツで状況が大きく異なる ことが、 ドイツ農政の複雑さを生む。
強固なゲルマン的共同体(マルク)と 商品経済浸透の遅れがドイツ全体に共通する特徴。 ただし西ドイツと東ドイツでは展開が大きく異なる。
300 余りの諸国に分裂。農民を領地に集めるために 農民保護政策を実施。次第に労働地代から貨幣地代への転換が進み、商品経済が浸透していく。
ただし、イギリスでみられたような 毛織物工業の勃興はなかった(産業革命部への歩みは遅い → 都市人口の増加は遅い)。
14 世紀から 農場領主制(グーツヘルシャフト)と呼ばれる領主直営大農場が成立。農村人口の減少を逆手にとって 経営地を拡大。
残された農民に対する 賦役は著しく強化される。生産された穀物はイタリア・スペイン・ポルトガルなど当時のヨーロッパ先進地に輸出された(農業国としての色彩)。
ナポレオンによるドイツ征服という 外圧によって実施されるが、不徹底なものにとどまらざるを得なかった。 西と東でその意味合いが対照的に異なる。
旧領主から農民が 農地を買い取るかたちで実施。旧貢租の 20〜25 年分の有償解放。
多額の借金を抱えて苦しむことになる(→ 英国のような借地農的展開はみられない)。
シュタイン=ハルデンベルクの改革として実施。解放対象を著しく限定し、従来の耕作地の 3 分の 1 ないし 2 分の 1 を領主に返還するか、その金額を支払わなくてはならなかった。
経営耕地を大幅に減らしたうえでの農民解放。すぐに没落し、事実上 プロレタリア化。領主制農場は規模を拡大し、没落貧農を低賃金で酷使する ユンカー経営として発展、穀物生産を増加させていく。
ドイツは 共同体的な規制が長期間にわたって残存することになった。
西ドイツは 大量の零細農民が農村に滞留する構造が、東ドイツは 身分的従属関係を伴った領主制農場が支配的となる = 農業生産力の低位性。
ドイツ工業は大部分が小規模な問屋制内家内工業で 商品経済の浸透が遅れる → イギリスで典型的にみられたような農民層分解は進まない。 農村における大量の小農(東ドイツでは貧農)の滞留構造が、ドイツ農業の特徴となる。
重商主義段階における 農民層分解の態様の違い が、 次の自由主義段階における農業問題の違いとなって現れる。
以上のような重商主義段階における 農民層分解の態様の違いが、 次の自由主義段階における農業問題の違いとなってあらわれることになる。 イギリスとドイツ、ドイツの西と東、の間に違いが生まれ、 それが後々のことに影響を及ぼすことになっていく ― この一点が掴めれば本回は十分である。
こうした 長期の比較対照観察を、農業政策以外の別の政策領域で行ってみるのも面白い。 例えば エスピン・アンデルセンの社会福祉政策のレジームの違いの分析はそれにあたる ― 福祉国家の類型(自由主義/保守主義/社会民主主義)も、各国の歴史的経路の違いから読み解かれている。